私の頭の中のオーガナイザー

脳みそを整理整頓します

片付けと幸福論

BECKのThe Golden Ageはこんなフレーズから始まる。

"Put your hands on the wheel"
"Let the golden age begin"

"車を手に入れよう"

"ゴールデン・エイジを始めよう"

"golden age"っていうフレーズが僕はとても好きで、なぜって金色って色が聴いた瞬間に一発でイメージできるから。そんな安直な理由しか思い浮かばないくらいイメージ一発なので最高の時間みたいな意味で捉えてもらえればまあ良いい。この曲は「ゴールデン・エイジに僕は何もかも放り出して君とずっとドライブするんだ、最近は全然ダメだよ、あーあ」と嘆いている(雑で省略しまくった意訳)センチメンタルな曲で、歳を取るにつれてこういうシンプルなセンチメンタルに対する耐久性はどんどん下がっていく。センチメンタルと郷愁ってのは非常に親和性が高く、これを聴くと僕はいつも自分のゴールデン・エイジを思い出す。

今日は仕事が早く終わったから部屋の掃除をしていた。僕の部屋は一度掃除をするといつもだいたい1〜2ヶ月くらい放置され、服ベッドの端に山積みになり床に飲みかけのペットボトルが5〜6本散らばり出した頃にまた綺麗になる、こんな周期を基本的には繰り返している。それでも僕が全く危機感を感じないのは、今の自室の状況を正当化したい僕の脳神経系が、学生時代に入り浸っていた壊滅的な友人の家を定期的に思い出させるからだと思う。そのおかげもあるのか、僕の幸福だった時間は頭の中で汚い部屋と密接にリンクしている。

いつも溜まり場になっていた家は少し頭が飛んでいる友人とそのペット的存在が2人でシェアハウスをしていて、その空間には、男同士の2人暮らしという条件下であるため、そもそも片付けという概念自体がなかった。至る所にバイト先でパクってきた灰皿が置かれ、漫画や教科書、服やゴミ(料理はほとんどしないので生ゴミがないのがそれを助長させていた)は床を埋め尽くすために存在し、僕らはその間をかき分けて座るスペースを確保しながら、倒れるまでスマブラ(もちろん64の無印で)をして、倒れるまでギターを弾き、倒れるまで色んな話をして笑い続けていた。朝5時になると倒れた人間達を叩き起こしてそのマンションの目の前のファミレスで朝食セットを食べてようやく座椅子を枕にしながらみんなで眠った。夕方前に起きて、バイトがあるやつはそのままバイトに行き、居残り組はまたゲームを始めたりギターを弾いて歌い出したりして、僕はシャワーだけ浴びに自分の家に帰ってまたそこに戻った。記憶が正しければ自分の家で過ごすのと同じくらいの時間をそこで過ごしたはずだ。

大なり小なり勉強漬けの日々を終えて、親の保護下でありしかも期限付きではあるものの、初めての自由な時間を手に入れた僕たちは、ここぞとばかりに自分の中に今までこっそり育てあげてきた小さな小さなパンクスピリッツをついに解き放つことに成功した。講義を可能な限りサボり、真面目に勉学に励む学生達を蔑み、酒の強さが人間のランクを決定づける最も大きな要因だと謳い、大きくて歌が聞こえないくらいうるさい音を出すためだけにギターを歪ませながらかき鳴らしていた。とにかく正しい物事に嫌気がさしていた僕らにとってその地獄のような部屋は、物があるべき場所なんて存在していなくて、全ての物はただそこにあるだけで、別にどこにあってもよくて、そんな包容力の強い乱雑さを僕らはたまらなく愛していたのかもしれない。

結局僕らはちゃんと大学にまで入ってしまうような人間であり、ちゃんと学士の証書をもらっていくような人間であり、なんだかんだと言いながらもレールから外れきれないような人間で、最終的にはみんな8〜17時や9〜18時で拘束されるしごく真っ当な社会人になってしまうのだけれど。

 

1年半ほど前、Twitterで知り合った友人の家に行ったのだけれど、そこは学生時代の思い出がフラッシュバックするほど汚い部屋で、その部屋で3日間くらいずっと4人で遊んだが、本当に楽しかった。みんなその時初めて会った人たちだったがここ数年でもトップレベルの楽しさで、あれは確実に壊滅的に汚い家だったことも大きな要因だと今でも思う。ということは。逆に考えてみる。いつもは1〜2ヶ月で片付ける部屋をそのままスラム街の5人家族が住んでいそうな状態になるまで放っておいたらどうなるだろう。そこに友達を呼べば。

"部屋を汚そう"

"ゴールデン・エイジを始めよう"

こんなことをダラダラと書き連ねるくせにどうせ1ヶ月後にはまた掃除し始めている自分が容易に想像でき、とても悔しい。全然ダメだよ、あーあ。

100gecs、ギリギリの継続

ちょっと前にNKT氏に教えてもらってサラッと聴いてあー最高だなと思って放置してた100 gecsをここ1週間ヘビロテしている。2人組のグループなんだけど最近YMOの後期にハマっていたのもあってそういう気分だったのだろう。まあとにかくめちゃくちゃに最高に脳を破壊してくれるので、そんな100 gecsをとても分かりやすく説明したい。

 

分かりやすく言うと、チャートの天辺をかっさらうようなマス向けのHIPHOPやEDMを綺麗に混ぜ合わせて丸めた球体を、コンクリートに何度も叩きつけてバキバキに割りゴミ置き場に投げ捨てて、それをどっかの子供たちが面白半分で拾ってガムテープでくっつけて作った塊で、試しに火をつけたら半径2kmくらいまで粉々に吹っ飛んだ、そんな感じだ。

表現を変えると、泥酔してパチンコ屋に入ってサンキョーの台を打ったら2kで確変入って喜びのあまり金属バットで台破壊したら周りの客もゲラゲラ笑いながらこっちを見ててあーこんなことやっても良いんだなって、そんな感じだ。

 

普通に話すと、ポップなEDMとHIPHOPをパーツだけ切り出してパンクとノイズとピーキーとジャンクを接着剤がわりに再構築したような音楽で、爆音で流すのにふさわしい音楽だ。ぜひ締め切られた空間、もしくはイヤホン、ヘッドホンで聴いて欲しい、脳を完全に粉々にしてくれるだろう。そういうアッパーなトランスを誘導する音楽で、そういった点では完全にパンクスピリッツを持ち合わせていると言っていいだろう。正直こういうのは兎にも角にも一回聴いてくれ、ハマらなかったら10回、それでもダメなら100回だ。

 

とりあえず今週は3回ブログを更新した。来週は2回が目標。そういえば今日髪切りに行ってバダサイみたいな髪型になった。あとはムショに入って刺青入れて大麻吸うだけ。

麻雀、シティーボーイへの憧憬

ここ最近TLではMリーグだの皿リーグだので溢れかえっていて麻雀を打たない僕にはいまいちピンとこないものがある。

 

何回か覚えようと試みたことはあるが最初の覚えなければいけない役の多さで躓く。その代わりというわけでもないが友達とはたまにテキサスホールデムポーカーをやったりはするし小学生の頃はドンジャラが好きだった。自分との親和性はあるとは思うのだが何故かあの字牌を見るたびになんとなくやる気をなくす。なんでなのか考えていたけどそういえば昔からアジアっぽい文化の物事にあまり興味がなかった。読んだのは三国志水滸伝くらいで小説ももっぱら欧米のものだ。日本史は嫌いだったから世界史を選択したし中国史はセンターまでほぼノーマークで過ごしていた。漢字を見ると覚える気をなくすのだ。そのかわりカタカナはとても覚えが早かった。だから麻雀がもし"Merjanc"でフランス発祥のゲームで、字牌の代わりに騎士とか魔女とかそういうものが当てはめられていたのならまた麻雀観も違ったものになっていたのかもしれない。

 

ただ台湾とか香港とか上海の都心ど真ん中の雰囲気は好きで、サイバーパンクアジア文化の親和性の高さもすごく面白いと思う。完全なイメージの領域の話だが、都市的な風景だったりインテリチックな物事が好きなのだ。人生の大半をど田舎で過ごしているからどうしても牧歌的なものが好きになりにくい。シティーボーイへの憧れやコンプレックスが私の人格や感性を支配しているんだろう。それこそ三国志とか水滸伝の国だっていう旧時代の中国のイメージが最初に湧いてきて脳がそれを拒絶している。

 

書いてていかにも田舎くさい理由だと思ったがもう人格を修正できる時期は過ぎている。賭け麻雀も合法認定されたことだし、カジノのついでに日本の至るところにポーカーハウスも作ってくれ。

リハビリテーション、継続、期待値

文章を書くことが自分が思っていたよりも苦手だということに気づいた。平均よりはたくさんの文章を読んでいる自信はあるがインプットだけではもちろん文章を書くことは身に付かない。なのになぜか書ける気になっていて、これが批評側の全能感だと思った。出来上がったものを見てあれが足りないこれが下手などとギャーギャー喚くことは簡単だ。1を10にするのは楽勝で問題は0から1にするとき、そこには全く別の能力が必要だ。

 

最近歩き方を変えた。重心を少し後ろに持ってきて背面の筋肉を全体的に使う、特に大腿の後ろ。かなり歩くことが楽になったし何より歩くことに対しての面倒臭さがかなり減った。身体動作について少し勉強もした。技能というか動作について洗練させていくには、同じ動作を何度も繰り返し意識しながら行い、それを無意識に染みつくまで繰り返す。なんらかの技術が必要になる物事をやったことがある人ならなんとなくは分かるだろうけど、これは別に身体動作だけではなくて思考にも言えるだろう。文章を書くには文章を書く呼吸や型があるんだろうしそれを見つけるには継続した訓練がなによりも必要でそれをいつものように投げ出している間は上手くはならないんだろうね。なるべく短くてもいいから継続することを心がけたい。

 

継続は力なり。これは最近分かったんだけどギャンブルにも適用される。ギャンブルでの最終的な勝利は期待値によってもたらされるのだが、期待値っていう概念は一回や2回の試行ではまず収束しないし上振れを引けるかだけの勝負になる。まず期待値を追うための大きな条件があってそれは、これからずっと期待値を追い毎回毎回休まずにそこに突っ込み続けることだ。継続によってしか期待値の期待は実現されない。そのたった数回、数十回の試行での勝ちはただのまぐれ勝ちだ。その一回の勝負レースでの勝利はただのまぐれ勝ち、その1日の収支はまぐれ勝ちだ。ギャンブルに本当に期待値の概念を持ってして勝ちたいのなら、あなたが辞めるまでその期待値を追い続けなければならない。すごく過酷な道のりだと思ってしまった。

 

ちなみになぜこんなことを思ったかというとパチンコの期待値稼働をしていたら久々に2日間で7万ストレート初当たりすらなく負けたからなんですけどね。地元ではありえないくらい回っていて、むしろ回すことに快感を覚えてしまったからずっと通常時を打ててとても良かった。とはならない。給付金が入ってからどうもヒキが弱すぎる、やはり安倍政権は巨悪だし急にバシバシ摘発始めた検察庁を全面的に支持したい。

きょうかんがえたこと

小学生から精神の大部分が全く成長していない。いつまでたっても遊ぶこととおもちゃのことしか考えられない。すぐ楽しい方へ楽しい方へ流れようとする。

 

大学生の頃は楽しかった。朝が来るまで酒を飲んだり、朝が来るまで歌ったり、朝が来るまでスマブラしたりした。町中で誕生日プレゼントを賭けた鬼ごっこしたり、友達の部屋の家具を配置そのままで全部駐車場に移したり、勝手に入った友達の部屋のリビングで子供用プールに水溜めてポーランド人泳がせたりした。長いこと付き合った彼女もいたけど当たり前のように自分だけ留年して当たり前のように別れた。毎日よく分からないけど面白いことが起こってたからギャンブルなんて要らなかった。今日久々に昔の写真見返してたら寂しくて泣きそうになった。

 

バンドは楽しい。おっきい音を出しておっきい声で歌っていると、たまに一瞬だけ自分だけの完全な世界が生まれる。没入感に優れていて体育会系じゃない人間の脳みそに比較的楽にダイレクトに響く。だから好き。でも、それとは別に、バンドは1番楽しかった大学生時代の象徴みたいなもんで、それを手放すと、何1つあの頃が残らなくなるから、週一とか二週に一回とかしかスタジオに入れなくなった今でも続けている。幸せな時間と薄皮一枚でも繋がってたいっていうか離れるのが怖い。そういう理由も多くを占めていると思う。

 

前の職場はドラマティックなとこだったからすごく面白かったけど止むに止まれぬ事情によりゴミ会社へ。業務以前の問題が山積みな場所であと3ヶ月くらい耐えることにもう限界を感じている。パチンコに行くために適当な外出の理由を考えること、儲かるけどやらなくてもいい仕事を放置していくら落としたか数えること、LINEで椎名ちゃんとフリージャズ的な言葉のやりとりくらいをすることくらいしか勤務中の楽しみがない。仕事をいくらやろうが上のアホどもは給料に反映させる気がない。仕事は頑張るだけ無駄だから、自分の部署の職員の給料分と経費分まででトントンに抑えることを第一に仕事をしている。アホどもは自分たちで部署ごと引っ張ってきたくせにこっちの業務内容を知ろうともしないので誤魔化すのは容易だ。ただたまに面倒くさいだけであとはどうにでもなる。こんなクソみたいに刺激がない場所で自分の時間を浪費してしまうのがキツい。

 

何もせず時間が解決するのを待つことがかなり苦手だ。さっさとおもちゃみたいな仕事で遊びたい。

紙パックの日本酒と祈り

 昨日はやっすい紙パックの日本酒ガンガン飲まされて帰ってから一日中眠り続けてた。ああいう酒は次の日を滅ぼすための役割しかないんじゃないかな。紙パックの日本酒を一人一人に1パックずつ飲ませたら1日で世紀末が訪れると思う。かつての金星の文明を3日間で滅ぼしたキングギドラも真っ青。二度とあんな酒を飲むことがないように祈っている。

 

祈るっていうのはこれ以上自分の関与では全く結果が変わらない物事に対して行うもの。これ以上どうにもできないことに対して少しでも良い方向に進むように願うこと。そう考えると競馬も1つの祈り。レースの結果って1つしかないしそれはこっち側がいくら馬の能力値を見極めたところで変なペースになってレースがクラッシュすることだってたくさんあるし出遅れ落馬だってある。そんな中で自分が望んでる1つの結果になるように祈る、祈る、祈る。競馬民は祈りのプロである。少しでも良い方向に、というのはすごくステキな気持ちだと思うし愛に近いものがある。

 

 愛と恋の違いは相手を1人の人間としてみるか、それとも異性としてみるかっていうところで愛は同性でも成立するもんだと思う。相手に対してのいたわりとか優しさとか、そこらへんの小っ恥ずかしいけどステキな気持ちあるやん?そういうもんなのよ。ちょっと長くなりそうな話だし割愛。ただ一つ言えるのは、愛や恋はインスタント的なコンビニエンス的な気持ちではないと思う。

 

 コンビニは24時間開いててどこにでもあるから気楽に人が入れる。気楽さっていうのは実は本当に価値の高いもので、スケールメリットで1番大きいのはこれ。ローカルに進めていくと質の面は上がるんだけど基本的にどんな商売も質より量のが上が吸える取り分は大きくなる。量を稼ぐのに1番必要なのが気楽さ。丸亀製麺がいかに本場の香川県民からみてクソだろうが、一蘭が博多人にゴミ扱いされてようが、スタバのコーヒーがドブ水だろうが、人は気楽さを選んでいく。地元の人の知る人ぞ知る名店は多いし地元ではそれなりに強いローカルなチェーン店なんかも多いんだけどね、ジョイフルに週3で通ってた私が言うんだから間違いない。ただ忘れて欲しくないのは気楽さはそれ単体での価値があるものではなくて、なるべくなら肩を少し張ってでも質が良いものや見たことないものを探しに行くような生き方はしていきたい。

 

 最近はTLでも前よりアホどもがアホ晒して叩き合ってて辟易してる。こっちはただでさえストレス社会と闘ってるというのに見てるだけでゲンナリしてくる。じゃあTwitter見なきゃいい話なんだけど私だってストレスのはけ口にしてるしたまには醜い言い争いに参加しちゃう事だってある。醜い争いっていうよりも争い自体が全部醜い。怒りをぶつけるってことは剥き出しの自分をぶつけるって事で。人間の中身なんてほとんどエゴでそれはそれは醜いもんだし、だからこそ美しいものが好きで美しくありたいと思うんじゃないかな。競馬なんてやらずにそういうステキな方向に向かう祈りだけやっていきたいと思うよね。

クソダサいパッチワークみたいな文章でお粗末様でした。安田記念◎サングレーザー、皆さん明日も祈りましょう。